はじめに
人は状況に応じて様々な感情を使い分け、日々を過ごしています。
しかし、その人にとって衝撃的な出来事だったり、心を強く揺さぶられるような経験をすると、その出来事と感情が脳に強く刻まれます。すると、あえて意識しないようにしていても、その時の状況が繰り返し蘇り、なかなか意識を逸らすことが出来なくなります。
もしもそれが幸せな出来事なら、本人にとっては幸福かもしれませんが、辛い経験だった場合、日々生きることが難しくなってきてしまう事でしょう。
そこで今回は、もしも一つの感情に意識が囚われてしまったらどうなるのかについて、喜怒哀楽という4つの感情にフォーカスを当てながら、私独自の視点を交えながら考察をしていきたいと思います。
感情とは
そもそも 感情とは、人や動物と言った意識のあるものが、特定の対象に対して抱く主観的な気持ちのことを指します。また肉体は無くても、エネルギーとして存在し、生きている私たちに影響を及ぼしてくるものもあります。
喜びとは
喜びとは嬉しく思ったり、何かを得たときに満足したことで生じる感情です。人は喜びを感じることで、心や胸が躍ったり、うきうきとして気持ちが華やいだものとなります。
また喜びは目的や目標へと変わることがあり、行動するうえでの原動力ともなります。しかし喜びは単発的であり、気持ちが盛り上がってもすぐに落ち込み、長続きしません。
その為、喜びを得ようとしても自分本位ともとれるような行動をとってしまったり、喜びのあまり周りがみえなくなってしまうこともあります。
喜びの感情を使い続ける(求め続ける)とどうなるか
もしも喜びの感情ばかりにフォーカスをあてて生きていくとどうなってしまうのでしょうか。
喜びと言うのは一過性で強いエネルギーが生じる分、それが終わったときの落差も強く表れやすくなります。もしも喜びと感じるものに執着を使っていた場合、同じような体験を味わおうと経験動作を繰り返そうとします。分かりやすいのが買い物による、物の増加です。
そもそも物が増えてしまうのは、物を買うことによって、自分が持っていなかった物が自分の物になり、まるで自身の空白が埋まり満たされたような感覚を体験したことで起こっていきます。前述したように、喜びは一時的なものなので、いくら充足感や満足感、所有欲などが満たされても直ぐにその絶頂は急落し、物を買い終わって暫くすると、まだ足りないと言った枯渇感を感じるようになります。枯渇感は不安となり、焦りも生じてくるため、また買い物をした時に得られた喜びを手に入れようと、再び買い物を繰り返します。その結果物が増えていきます。
また人によっては目的のものを手に入れられることで得られる喜びのために、たとえ相手が傷ついたとしても、手段を択ばず行動をすることがあります。
もしも承認欲求を満たされることが喜びの場合、誰かに褒めてもらうために、自分のアピールを過剰にしてくる場合があります。
例えば、私はあなたの為にこんなに良いことをしました。さあ褒めてください。と要求してきたり、他人を引き合いに出して、あの人はこんなに出来が悪いが、私はこんなこともできる。と言ってきたりします。他にも自分以外の他人が褒められることが気に入らず、相手を引き下げるように悪い噂を広めたり、嫌がらせをしたり、ミスを押し付けたりする場合もあります。
他にも、食べ物やお金、車や家などの大きな物でも、自分が誰よりも多く所有している事が喜びだと感じる場合、全て独り占めにしようとして、頻繁に争いを起こします。そのような人は、実際に誰よりも沢山物を持っていたとしても、足りることはないので直ぐに枯渇感を感じてしまいます。そして他人の持ち物をチェックするように、自分と比較しどうすれば相手よりも優位に立てるのかを考え行動しています。
このように自己中心的な考えでは、他人を傷つけ、他者との関係性を悪化させてしまいます。
喜びの扱い方
もしも喜びだけで心を満たそうとしても、その感情特有の落差により心の充足感を埋めることはできません。そしてそれは、また欲しい。もっと欲しいと言う、欲となって表れてきます。
ただ、喜びは決して悪いものではなく、生きる上の原動力や目的・目標ともなります。また、相手に喜んでもらおうと何かを企画したりプレゼントをする場合は正のエネルギーが働き、そのエネルギーが相手を通して循環することで、感謝や幸せと言った別のエネルギーを作り出すきっかけともなります。
直ぐに冷めてしまう喜びではなく、もっと長続きする幸せへと変化させる為に、自分だけの喜びを得ようとするのではなく、喜びの分かち合い方を考え、伝えていくことが大切であると考えます。
怒りとは
怒りとは、何かを体験経験した時に、自分にとって不快感や理不尽さを感じたり、侵害を受けたと感じたときに生じる感情であり、自分や心から大切にしている他者に抱いている愛そのものであると考えます。
怒りの感情を使い続けるとどうなるか
怒りを表現する人は、愛するものや大切にしたいと思っているものを傷つけられた時に、その受けた傷がどれだけ深いのかを必死にアピールしているようなものだと考えています。
たとえ何をされてもかすり傷すら負わない人は、他人だったら傷ついてしまうような場面でも、目の前の出来事はどこか他人事で、まるで風景を見ているように心は常に冷静で静けさがあります。
しかしちょっとしたことでも傷ついてしまうような人は、常に自分の中で警報が鳴り続けているので、心が休まらず、加えて不安や焦りも生まれることから、なんとか安全を守ろうと、自身を正当化し、傷の痛みを怒りに変えて表現しているのです。
そもそも怒りと言うのは、初めから存在するのではなく、その前に不快感や寂しさ、辛さ、悲しさ、不安、恐れ、妬み、苦しみ、嫉妬などが存在しています。それが積み重なってある時「怒り」として爆発します。
怒りの感情はとても強力です。怒りとなるもののエネルギーは火薬のようなもので、その量が多ければ多いほど、火が付いた時の影響は計り知れません。
もしも怒りの種(火薬)が湧いたとしても、途中発散することが出来ていれば燃えるものが無いので怒りも爆発しませんが、それをせずにネガティブな感情を溜め続けたり、使い続けたりしてしまうと、どんどんと増幅し、そのうち自分自身では対処しきれなくなってしまいます。
ブッタの教えに「あらゆる怒りは、自身の理性を破壊する」とあるように、怒りは本来の自分自身を覆い尽くし自分の姿が分からなくさせてしまいます。
怒りが抑えきれず溢れ出てきてしまうとそれが殺意に変わったり、怒りの原因と思い込んでいる対象へなりふり構わず行動するようになります。
他にも怒りを抱き続けることによって変化するものがあります。
それは人が纏うエネルギーです。肉眼ではなかなか見えませんが、エネルギーレベルではその人が纏うオーラが黒くて重い刺々したものとなり、まるで切り裂くような感覚のものへと変化していきます。そして、怒りのエネルギーはどんどんと自分の体に浸透していき、体を蝕むことで病気や体の不調として現れたり、人相も変化させていきます。
また怒りのエネルギーは、似た別のエネルギーを持った霊的存在を引き寄せるので、その霊による影響により、さらに行動の異常性に拍車をかけてしまう場合もあります。
怒りの扱い方
怒りの前の感情(ネガティブな意識)が芽生える根本には、自分が大切にしているものへの愛があります。
人は意識していなくても自分は心から愛されたいと願っていますし、他者を愛したいと思っています。なのでそんな愛の存在である自分や他人が傷つけらたと感じることで、悲しみや、不安、恐れと言ったネガティブなものが生まれ、それが自身の許容範囲を超えることで怒りとして表出されていきます。
なので、自身が決めた罪や規律・規範を赦し、目の前の相手ではなくその裏にある相手を慮る(おもんぱかる)ことで、自分の中にある心地よいそよ風のような優しさや穏やかさに気付き、自分そのものとして扱っていくことで自身や他者への愛を見出していくことが大切になります。
また自分もしくは、自分が大切に思っている対象を心から信じることもまた、自分自身の芯の強さとなるため、何があっても大丈夫だという意識を持つことも大切になります。
哀しみとは
何か失敗や挫折をしたり、大切にしていた物や愛する人を失うことで酷く心を痛めたり、感じる喪失感や、絶望、失望、諦め、無力感と言った、心の虚無感によっておこる反応のことを指します。
例えるなら、自分が心を込めて大切にしていたオモチャを突然自らの意思に反して取り上げられ、二度と返して貰えないと知った時の子どものようなものです。
他にも自分が今まで一生懸命努力して積み上げてきた事が、全くの無意味で価値のないものだと、自分が理解できる形で突きつけられる事で、まるで自分が価値の無い人間だと感じたり、自分の存在理由を見失ってしまった時にも哀しみは生じます。
哀しみの感情を使い続けるとどうなるか
人は自分が所有していたり、あって当然だと思っているものが突然無くなることで、自分が欠けてしまったような感覚に陥ります。そしてその結果、自分の思い描く現実と理想の自分との差に心が追い付かず、脳に混乱が生じ意識が不安定になります。それは、別の言い方をするならば「理想への執着による現実からの逃避」とも例えることができます。
このまま目の前の現実を受け入れられず、認めることもできないと、「持っているはずのものを持っていない自分」を否定し続けることになり、自分がこの世に存在する理由や目的、価値を見出すことができず、それにより自分に対する信頼や自信を喪失していきます。
そして何もせずそのままその意識を放置することで、強いストレスが脳や全身をかけ巡ると、次第に思考が停止し、肉体の体もどんどんと固く動かなくなっていってします。それはまるでブラックホールが様々なものを取り込んでいくように、人は自ら生み出した強力なネガティブエネルギーによって意識が飲み込まれていき、さらに強く硬く心を閉ざし、悪化すると死を意識するようになります。
空の巣症候群や、仕事人間の人が突然仕事がなくなってしまった場合などもこれに当てはまります。
哀しみに陥りやすい人は、自分から大切なものを奪ってしまったものからその大切なものを奪い返そうとしても、自分が対抗するにはあまりにも自分が無力で、愚かで、なにも出来ない存在であると思い込みやすいため、現実に立ち向かう気力をそぎ落としていき、気のエネルギーも停滞させていってしまいます。
哀しみの扱い方
私は哀しみにくれる人はアイデンティティ・クライシス(自分とは何か、自分らしさについて分からなくなってしまった状態)であると考えます。
そもそも自分と言うものが他を介しての自分ではなく、誰にも左右されない自立した自分として責任をもって生きていれば、自分の周りの環境が変わったとしても哀しみに暮れて自己崩壊するような道を辿るような事をしません。つまり、このようになってしまうのは、「自分の存在は他があるから成り立つ」と言うような他人軸的な考えを持っている事で生じてきます。
そもそもそのようになってしまうのは、自分と言う存在に自信が無かったり、自分自身への愛が不確かなものであることが原因で、自分と言うものに軸を作る事が出来ない為、他への依存と言う形で、自らの存在価値を定めているのが原因と考えます。
なので、対策としては自分自身への愛を確認し、愛を深めること。それにより他人や自分以外の物にアイデンティティを作らず、自分軸を持ち、持っていない自分を責めるのではなく、ありのままの自分を認めることが大切になってきます。
それには、まず感謝の言葉を口に出していくと良いでしょう。
無くなってしまった物(人)への感謝。それに関わった物(人)への感謝。自分が今この世にこうして生きていられていることへの感謝。
感謝は執着と言う欲を手放せるだけでなく、謙虚さを思い出させ、思いやりのような優しさや愛へと変化し自己中心的な考えから大きく周りを見渡せる視野を与えてくれます。
楽しさとは
心が満ち足りたような充実感や充足感、内側から湧き上がるような感情、エネルギーを言います。
童心に返るような遊び心溢れたわくわくとした感覚とも言えるでしょう。
楽しさの感情を使い続けるとどうなるか
私は楽しさは内から生じるエネルギーで、反対に喜びは外から与えられたものであり、また楽しさは喜びに比べるとエネルギーの強さは低いけれど、時間的には長いと考えています。それは、楽しさが心の豊かさを育むことに長けているからだと考えます。
そもそも楽しさとは「もしかたら~かもしれない」と言う予感のようなどこか曖昧なものからも生じますし、「そうか、そういうことだったのか」という気付きや心の成長からも生じます
また楽しい気持ちは脳がリラックスしている状態であるため、楽しいと思えることは集中して続けられたりする反面、楽しさを優先するあまり、しなければいけない楽しくない事を避け、楽を選択してしまうこともあります。
その為楽しいを優先させている人を他人が見ると、夢見がちな人だと思われがちです。しかしそんな楽しそうにしている人の行動は、他の人に伝播しやすく、関係ない人でも楽しい気分にさせる力を持っています。
楽しさの扱い方
楽しさは次々と湧き出る湧き水の様に、とめどなく心から溢れてきます。そのエネルギー量は計り知れず、底知れぬ原動力となり人を動かし続けることが出来ます。喜びのような力強さが無い分、継続するに十分な余力をもって行動をすることが出来るのも利点といえます。
楽しさというエネルギーは自分だけでなく人を心地よい気持ちにさせたり、笑顔にする力がありますが、ただ楽しさだけを選択してしまうと、浮世離れした言動が多くなって社会で生きることに困難さも生じてきてしまうので、もしも楽しさというエネルギーを使うのであれば、面倒な事や一見楽しくないと思われるようなことでも、必要と感じたら取り組んでいくことも大切になっていきます。
まとめ
どんな感情も常に自身が作り出し、生み出しているものになります。そしてそれを纏うことで、まるでローブの様にその人を取り囲む色となっていきます。
どんなローブを纏うかは自分次第です。
今が一番辛いと感じている人でも、何かのきっかけで日々の生活が心穏やかなものへと変わり、また和やかで、愛溢れる瞬間で満ち溢れていたら、きっと満ち足りた幸せな気持ちで生きる事が出来きたら良いと考えています。
そして私はそんな意識を使って生きたいと願うあなたを応援していきたいと思っています。
最後まで読みくださいまして、どうもありがとうございました。